なぜ自殺してはいけないか?

2019年7月9日

なぜ自殺してはいけないか?

久しぶりの哲学的なテーマである。

ずばり解答しよう。

結論

それは国の都合だからである。

良い例えをすると、国民一人ひとりは国の宝である。
悪い例えをすると、国民一人ひとりは国の奴隷である。

人口が多いとそれだけ多くの兵力となり、労働力となる。
となると、雇用が生まれ、当たらしい産業が生まれ、国により多くの税収が入ってくる。

人口は多ければ多いほどいいのだ。

とは言え、多ければまた別の食糧問題・雇用問題・過密化問題などが出てくるが、それはそのときに考えればよいのだ。
大事なことなので繰り返し言うが、人口は多ければ多いほど良い。

これについては古今東西、どの国も同じはずである。

例外はカンボジアのポルポト政権のみか?

今現在、中国がいつの間にか・・・大国となり、インドも大国となりつつあるが、これはひとえに「人口」が多いからに他ならない。
中国・インドはさすがに多すぎなのでこれ以上は勘弁してもらいたいものである。

世界中の宗教で自殺が禁止されているわけ。

世界中の宗教で自殺が禁止されているわけを考えてみよう。

世界中の宗教で自殺が禁止されているかどうか調べたわけではなくて、私自身の感覚で恐縮だが、少なくとも自殺を推奨・容認している宗教は聞いたことも見たこともない。
「即身仏」はあるがこれは別の話である。

宗教の一つの目的としては、教義を世に広めることである。
世に広めることでより多くの信者を獲得し、教団中枢が潤うのだ。
そんな宗教が自殺を容認するはずもない。

(なんだか書いていて思ったのだが、宗教も国も、人が多いほうが、より潤うというのは同じことだなと感じた。)

また、宗教の側面として私の持論ではあるが、

宗教の一つの側面

宗教は「国や時の権力者が人心を操るためのツール」

だと思っている。

国が、自国の民にどのようにあって欲しいか。どう生きて欲しいか。という願望を明文化してルール化したのが宗教である。
全ての宗教が100%こうとは言えないが、このような側面も必ずあるのだ。

宗教と国(この場合は権力といったほうがよいか?)は切っても切り離せないものである。

このように国も宗教も人が減ると困るのだ。

人は必ず死ぬ。
これは絶対原則で覆せないものであるが、なるべく、動けうる内は動いて労働力として貢献して欲しいのだ。

「人生いやになった・・・もう死ぬ。」
「はぁ・・・疲れた。もういいかな?」
と、勝手に自殺されたら、国は困るのだ。

だから、
自殺したら、死後にさらに苦しむぞ!
自殺したら、天国にいけないぞ!
自殺幇助は罪にしよう。
と宗教や民間伝承、そして法律で縛り自殺を防止しているのだ。

今、これを見ているあなたは自殺についてどう思っているか?

おそらく
「いけないこと」
などマイナスの印象を思っているはずだ。

だが、このような考えを持っていること自体、「自殺をタブー視をさせる国の心象操作」の影響下にあると言えるのだ。

結論。なぜ自殺はいけないのか?

Point

国力の低下の防止のため、自殺を国が禁止したり、自殺の手助け(自殺幇助)を罪にしたり、自殺そのものにネガティヴな印象操作をしているから、「ダメ」と思っているだけなのだ。するもしないもあなた次第なのである。

ここで書いている「国」は「コミュニティ」という言葉に置き換えても差し支えないだろう。

あと、それとは別に・・・自殺したら、家族が悲しむよね。

私自身は、家族が居なくなったらいつ死んでもいいと思っている。

私自身が描いている理想の自殺の仕方はまた改めて記述しようと思う。

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